ぼくはよく「優しそう」と言われます。場合によっては「優しい」と断定されることすらあります。
どーも、Frascoそうまです。
しかしながら、ぼくはそんなに「優しい」人間ではありません。
ぼくが20代中盤から20代後半だった頃に出会った生徒たちは、きっとぼくに対する印象の一番最初が「優しい」には決してならない思います。
そもそもぼくは、物心がついた頃から、体育会系と呼ばれるパワハラ集団の中に身を置き、長い年月を過ごしてきました。
おまけに時代は平成前半。
「鉄拳」が「愛の鞭」と比喩される時代でした。
そんな時代で育ったぼく(ら)にとって、鉄拳制裁や激しく怒鳴り散らす行為は日常的でした。
そんな風潮も次第に収まり、現代では生徒をあだ名で呼ぶことはもちろん、呼び捨てにすることも禁止されているところがあるとか、、、。
明らかにパワーバランスが変化しています。
もちろんどっちが良いとか悪いの話ではありません。
#どっちも悪い
で、育った環境のせいにするわけではありませんが、ぼくの20代はめちゃくちゃ怒鳴り散らしていました。自分のまとめる力の無さを補うために、和を乱す子を常に大きな声で叱りつけていました。
もちろん叱った数の倍は褒めました。
しかしながら、大声で叱る行為は、その瞬間の抑止力にはなれど、継続はしない。
そして、何より「怒られるからやめる」に思考が変化していることに気がついたのです。
いやいやいや!!ちがうちがうちがう!!
騒がしくしている子に対してぼくが叱ったのは、周囲に集中して勉強している子がいるからであり、その子に対する「思いやり」とか「気遣い」とか「優しさ」を持って欲しいから大声を出して叱っていたわけです。
ところが、ぼくが子どもたちに1番伝えたかったところは、ほとんど伝わらず、ぼくが怒鳴り散らす画だけが子どもたちの脳裏に残ったのです。
#そもそも優しさを伝えるときは優しい声で
ヒトって、大声を出されると少なからず萎縮してしまいますよね。もしくは、反発が生まれる。
そして、なにより子どもたち一人ひとりが持っている、個性とか特性とかってのにしっかりと目を向けて、それぞれにあった伝え方をしなければ本質を伝えることなどできないと学びました。
だからぼくは優しいわけじゃないんです。
ただ、伝えたいことがあるんです。
では、また。
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